描いた未来へ

「お前なら打てるよ」
 ヒーローがそう言うなら、きっと大丈夫だ。俺はピッチャーと向き合った。兄貴たちにとって因縁の相手が目の前にいる。俺たちにとっての最大の壁だ。
 不安が全くないと言ったら嘘になる。でも、俺にだって負けられない理由はある。兄貴と一緒に出れる最後のチャンス、それを潰したくない。
 俺はピッチャーを見据えた。今まで兄貴を目標に走り続けていた。扱いづらい木製バットだって、兄貴に追いつく為なら進んで使ってきた。
 兄貴は俺のヒーローで、憧れの存在で、近くにいるのに遠い存在だった。青道に来てからも兄貴には敵わない。それでも劣化コピーと言われないように頑張ってきた。
「思いきりいこーぜ、春っちー!!」
 栄純君の声が聞こえる。ずっとタイヤを引いて、他の人より人一倍足掻いてここまで登りつめた。調子に乗り易くて先輩にもタメ口が多いけど、彼がいるだけで雰囲気が明るくなる。
 栄純君みたいにはなれないけど、せめてプレーでみんなを盛り上げよう。俺は木製バットを握り直した。後は自分を、そして今まで一緒に練習してきたバットを信じてボールを打つだけ。『来たボールを打ち返す』。言うのは簡単だけど、それを実行するのは難しい。打ち上げないようにコントロールするには尚更だ。
 ピッチャーがムキになっているのが分かる。突然一年生が出てきたら誰だってナメられてると思うよね。それに代えられたのは好打者の兄貴だ。降谷君みたいにオーラが見え見え。
「(俺だって――)」
 ボールが飛んでくる。俺はバットを振った。木製のバットは折れ、ボールは飛んでいく。俺は一塁目がけ走る。俺だって他の人に負けられない。打者は打者の使命を果たすだけだ。
 兄貴、見て。木製バットをこんなに使いこなせるようになったよ。俺すげーバッターになってる? 少しは兄貴に追いついた?
 赤面する癖は変わらないけど、未だに前髪がないと安心できないけど、それでも昔の俺より何倍も前を向けるようになった。泣き虫からは卒業した。自分の意見だって少しは通せるようになったつもりだ。
「‥‥兄貴、俺だってベンチに入るよ」
 俺にはまだ早いかもしれない。その前に試合に勝たなければいけない。でも、呟かずにはいられない。
 甲子園まで、後少し――
「(しまった!)」
 もう少しで、後アウト一つで勝利する、そんな大切な場面で送球が逸れてしまった。栄純君がデッドボールをして雰囲気が変わった。試合の流れが稲実高校の方に傾きつつある。この重圧の中栄純君ならやってくれる、そう思っていただけに彼の死球は痛い。
 倉持先輩が何とか取ってくれたが、その隙をつかれ二塁にいた選手がホームに戻ってしまう。僅かな差が大きな得点に繋がってしまった。
「(俺がもっと正確にパスをしていたら‥‥ッ)」
 兄貴、先輩方、ごめんなさい。俺はラッキーボーイなんかじゃない。大切な場面で守ることのできないただの一年生なんだ。本当のラッキーボーイだったらここはちゃんと抑えれた筈なのに!
 会場が盛り上がる。俺たちは呆然とその場に立ち竦んだ。土壇場で逆転されてしまったのだ。この回で終わらせるつもりだっただけに衝撃は大きい。
 稲実高校側の声援が遠く聞こえる。俺は完全にこの場の雰囲気に飲まれていた。普段なら栄純君が声をかけそうな場面だけど、その栄純君もデッドボールをしたせいでショックを受けている。
「まだだぞ! 気持ちを切り替えろ!!」
 普段試合中に大声を出すことのない監督が叫んだ。甲子園を賭けた決勝戦だけに、監督も相当気合いを入れてきている。そうだよね。まだ負けが確定した訳じゃない。この回を耐えれば延長戦に持っていける。そのときに汚名返上すればいいだけの話じゃん。
 俺は深呼吸する。この失敗を引きずったらまたチームに迷惑をかけるだけだ。ちゃんと切り替えて、延長戦に伸ばすんだ。
「試合終了――」
 甲子園は遠い。俺の想像以上にずっと遠かった。あと少しだったのに、逆転負けされた。あと少しだったのに、勝てなかった。
 折角掴みかけた甲子園への切符を台無しにしてしまった。兄貴だったら大事な場面で送球が逸れたりしなかっただろう。やっぱり俺は未熟だった。ヒーローに追いつくことは結局できなかった。
 認めたくない。ここで終わるなんて認めたくない。俺は兄貴と一緒に甲子園に出るんだ。木製のバットは折れちゃったけど、また新しいのを使えば良い。
「さあ、並ぼう‥‥」
 結城先輩が背中を叩く。一番悔しい学年の筈なのにキャプテンとして俺たちを纏めようとしている。俺は先輩の指示に従う。だって、三年生がそう言ってるのに一年生が手間取らせちゃ駄目じゃん。
 稲実高校のエースは泣いていた。俺たちとは違う意味の涙だ。勝者と敗者、1メートルで空気が大きく違う。勝負はついたのに、未だ負けを認めたくない自分がいる。現実を受け入れなきゃ。そう思っても気持ちは前を向かない。

 * * *

「(俺のせいで‥‥)」
 あの試合の次の日、雰囲気は重い。泣きそうになるのを堪える。決勝戦の後、一度も兄貴に声をかけていない。あんな兄貴を見てるのは初めてだったから、何を言えばいいか分からない。それに兄貴がミスしたから負けたんじゃない。俺がミスしたんだ。申し訳ないし、何か言われるのが怖かった。
 兄貴は人前で泣くことをまずしない人だった。俺と違って何があっても泣かなかった。そんな兄貴が泣いた。甲子園に懸ける想いはそれだけ強かったんだ。
 練習しないといけない。そう思っても動く気にはなれなかった。対照的にゾノ先輩は自主練に行こうとしている。負けを引きずっている俺とは違い、前へ進もうとしていた。
「うらやましいのぉ」
 俺ははっとする。そういえばゾノ先輩はベンチに入ってなかった。それからゾノ先輩は本音を話す。三年生が引退する日を待ってたこと、選手としてあの場所に立ちたかったこと。
 一瞬凄くムカついたけど、考えてみれば納得する。自分の代が来るのを楽しみにするのは当たり前のことだ。先輩がいない分、自分たちのやりたいようにやれるから。それにスタンドで応援する為に野球部に入った訳じゃない。選手として一つでも多くの試合に出る為に野球部に入ったのだ。
 三年生が抜けた今、試合に出れる可能性が広がった。そのチャンスをゾノ先輩は無駄にしないようにしている。
 ヒーローはもういない。まだそれを理解するには時間がかかりそうだ。三年生が引退したと言っても目の前から何もかも消える訳じゃない。寮生活を続ける先輩もいるし、夏休みが終われば同じ校舎の中で生活する。
 今は一、二年生しかいないのに。俺たちが青道を引き継がなきゃいけないのに。
「ゾノ先輩、遠いですね、甲子園」
「そーやな」
「やっぱり兄貴みたいにはなれないのかな‥‥」
 兄貴は体格に恵まれなくても努力してレギュラーの座を手に入れた。それこそ一つ一つをミスせず確実にこなしてきた筈だ。兄貴に負けないようなプレイができるかと言われれば即肯けない。
「小湊は小湊や。確かに亮介さんは強いで。でもな、代打で打ったお前もかっこよかった」
 何だかんだいってゾノ先輩は優しい。はたから見れば口が悪い不良かもしれないけど、いざ関わってみれば面倒見のいい先輩だ。正直俺も最初は怖かった。
 夏の合宿で自信がなくなったときもゾノ先輩は俺を立ち直らせてくれた。本人はそういうつもりはなかったらしいけど。『余計なこと言ってしまった』って慌ててたな。合宿を乗り越え、結果として今の俺に繋がった。
 俺は唇を噛む。その後が問題だったのに。送球の場面が頭から離れてくれない。
「その後のことで全て台無しですッ!!」
 しまった。先輩に八つ当たりしてもしょうがないのに。俺のことを励ましてくれたのに棒に振ってしまった。
「‥‥すいません」
「すまんな。俺は行くで」
 そう言ってゾノ先輩は室内練習場に行こうとする。俺も慌ててついて行った。練習しないと身体が鈍ってしまうのは重々に分かっているから。この悪夢から逃れるのにはなかりの時間がかかると思うけど、やれるだけのことはやっていこうと思う。
 ゾノ先輩のように前を向くことは出来ない。でも室内練習場に行けば、ゾノ先輩と同じような考えの人がもしかしたらまだまだいるかもしれない。そんな人たちと関わる中で自分にいい刺激が与えられる。
 これで兄貴と一緒に甲子園に出るという夢は散った。それでもまだ俺には続きがある。こんなこと言うのは生意気かもしれないけど、兄貴たち先輩の分も甲子園に行きたい。兄貴があんなにも行きたがっていった甲子園に行ってみたい。

「(やっぱり兄貴は凄いや‥‥!)」
 沢山の歓声と、拍手。憧れの甲子園に行ける。これからベンチに入れるようにもっと練習しよう。
「――夢」
 夢の中の俺はベンチでそのときを見ていた。兄貴が倉持先輩との息の合ったプレイを見せて、栄純君はデッドボールも出さす川上先輩に回す。川上先輩はきっちり3アウトしてゲームセット。それはただの幻。俺たちは負けた。沢山の歓声も拍手も稲実高校が受けた。
「ごめんなさい」
 俺は一人声を殺して泣き続けた。今なら誰にも見られてないし良いよね。少しだけ泣き虫だったあの頃に戻って良いよね。泣き虫から卒業したつもりだったのにまだ心の中にいる。明日から切り替えるから。だからこの時間は泣かせて。

 * * *

 思うように結果が出ない。新チームが始まり練習試合ではなかなか点が取れずにいた。三年生がいたときのような活気があまりない。新しくキャプテンになった御幸先輩はどんな気持ちで練習しているのだろう。時々らしくない行動や表情をするときがあるから、少しでもこの何とも言えない空気を払拭しようと頑張っているのが分かる。
 そんなとき、突然三年生はやってきた。そして引退試合をしようと提案してきたのだ。現役を退いても流石三年生、俺たちは完全に押されていた。そんな状況を救ってくれたのはキャプテンの御幸先輩だった。彼の一言で降谷君のオーラがとんでもないことになる。
「(俺もまだまだだな‥‥)」
 俺だって降谷君に負けてられない。兄貴の分まで甲子園に行く。そう強く想い、新しい木製バットで打った。それでも兄貴に取られた。俺のヒーローは待ってくれない。うかうかしてるとすぐ遠くに行ってしまう。
 あの試合のとき、一本打ったぐらいで調子に乗っていたのかもしれない。それだけで兄貴に並んだと思っていた。今日の試合のおかげで色々と吹っ切れそうな気がする。こんなに楽しく試合ができるのは久しぶりだ。御幸先輩から栄純君と似たような台詞を聞くのは予想外だったけど。思わず苦笑いしてしまった。
 イップス真っ最中の栄純君も絶対にこの試合で何かが変わる。例えイップスが治らなかったとしてもそれと同じぐらいの何かを得られる。きっと他の人もこの試合で何かを学ぶ。勿論俺も。
「クスッ、楽しそうじゃん?」
「だって楽しいし」
 二塁にいる兄貴が声をかけてきた。思えばあの試合から一度も話していない。いつ話そうか考えていたのにあっさりと答えれた。まあ状況が状況だけに当たり前か。先輩たちは強い。それだけに燃える。俺は思わず笑みを零す。
「俺も楽しいよ。可愛い後輩をいぢめれるしね♪」
 そういえば兄貴、降谷君のときもいぢめてたね。技巧派にしかできないやり方でじわじわと攻めていく。それが焦りと苛立ちを生み、最終的に兄貴の方に勝利の女神が微笑む。いぢめるのもなかなか大変な作業だ。
 それからも試合は続き、ついには伊佐敷先輩がピッチャーとしてマウンドに上がった。意外なオーダーに驚きを隠せない。っていうか伊佐敷先輩も投手出来るんだ‥‥。本人の目の前で言ったら怒鳴られそうだけど、マウンドで投げてる姿を想像できない。
 三年生にもからかわれている。伊佐敷先輩は声が大きいから会話が丸聞こえだった。やっぱり駄目なんだ。でも栄純君みたいにどんなボールが出てくるか分からないんだろうな。そう思うことにする。
 試合は結局三年生の勝ち。悔いはない。むしろすっきりした。そして、監督の為にも改めてこの先強くならなきゃいけないと思い知らされた。正直あの感じの悪い人が新監督だなんて嫌だ。
「兄貴、手伝うよ」
「珍しいね、お前から声かけてくるなんて」
「‥‥ずっとあのときの送球が頭から離れなかったんだ」
 俺は兄貴の横で土を均しながら話す。このまま有耶無耶にしたら話す機会がなくなるような気がした。兄貴にどんなことを言われようと、自分のけじめをつける為にも苦い記憶に区切りをつけなければいけない。
「もっと俺に力があればって。だから、練習して、今よりもっと強くなる」
「そうじゃなきゃ困るよ。――才能の無駄遣いはもったいないし」
 兄貴はいつもの笑顔でそう言い放った。俺は後半の言葉の意味が分からず首を傾げる。
「(俺に才能なんてあったっけ‥‥?)」
 考え込んでいたら兄貴は先に進んでいた。俺は慌てて追いかける。時間が空いたせいもあるかもしれないけど、兄貴と普通に話せたことに安堵した。栄純君はクリス先輩と一緒に片付けをしている。あの二人を見ていると何だか安心する。
 やっぱり三年生は凄い。それぞれが足りない部分を補いつつも自分の持ち味を最大限に活かしている。
 もう立ち止まらない。過去にしがみついててもしょうがない。前に向かって走っていく以外、道はないんだ。得点力のなさだって、いつか解消してみせる。
 片付けが大方終わったときには、もうだいぶ陽が沈んでいた。この日の夕焼けはいつもより柔らかい赤色に染まっている。夕陽をじっくり見るのは久しぶりだ。今まで周りを見る余裕なんてなかった。一日一日を消費するので精一杯だった。
「倉持、春市のことよろしく」
 兄貴は近くにいた倉持先輩に声をかける。やっぱりこの二人は揃うだけでも頼もしい。出来ればもう少し鉄壁の二遊間を見ていたかった。あのときの送球ミスが脳裏に浮かぶ。俺はマイナス思考になる前に首を振って負の連鎖を断ち切る。今は倉持先輩の足を引っ張らないように俺も頑張らないと。
「倉持先輩、これからもよろしくお願いします」
 決勝戦は一生忘れない試合になる。それでも、前へ歩き出さなきゃ。
智美
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